病気の告知

2011.07.31

告知について思うこと

これまでセネガルと日本、という全く違った環境で、病と病院を生きそして死んで行った子どもたちについて述べて来た。

「告知をした方がよいのか、しない方がよいのか。」

こんな問いには即答できないものの、自分だったら告知をされる方がいいという気がする。延命治療もしたくない、と感じる。

「では、告知をされた患者は絶望の中で死ぬ、とうのは本当ではないのか。

なぜ告知をした方が良いと思うのか。」

いろいろな問題を分けて考えなければいけないだろう。

「告知をされた患者は絶望の中で死ぬのか。」

そういう患者もいるし、そうでない患者もいる。

セネガル社会の思想を分析した『ウォロフ社会の道徳哲学論』(La philosophie morale des Wolof, Assane Sylla, IFAN, 1994)という本に、「村八分」と「完全無視」に近い「罰」の概念についての記述がある。きまりを破ったり悪事を働いた者への最も重い懲罰として、周りの者全てがその人がまるで存在しないかのように、目に見えないかのようにふるまう、というものだ。罰の対象となった人間とは口をきくことも許されない。すると、罰を受けた者はほどなく死んでしまう。

日本の学校や職場で起きている「いじめ」を思い起こさせるような「罰」だが、自分が周りから全く見えも聞こえもしない存在になったのだと信じた時、人間は絶望して死んでしまう。社会に生きる人間は、社会から否定されると生きて行くことができない。死刑など執行しなくとも、人間は自死する。似たような「罰」は、アメリカ大陸に住むインディアンの中にも存在しているし、そう、私たちの社会にも存在してきた(もっとも、多くはそもそも「罪」の根拠がない「いじめ」や罪の無い弱者を対象としたものであったにせよ)。

話を戻すと、特定の環境で行われる告知はこうした「罰」に近いものでありうる。農村に住む貧しい老婆に高血圧である旨を伝えた日本人の看護師がいたが、告知の後のあまりの絶望の様子に「言わなければよかった」と深く後悔していた。

日本では莫大な治療費を払うことなく治癒することが約束されている「単純な病気」であっても、アフリカの寒村に住む貧しい農民にとっては、深刻な不治の病たりえる。その女はとても薬を買うことができなかった。深刻な病から回復することは不可能であり、それをかかえて一生生きて行かなければならないと知った時、絶望と嘆きのみが待っていた。

病を告げた20代の若い看護師は、深い後悔とともに日本へ帰って行った。

「何も治療ができない場合は、告知をしない方がいいと思いました」

という言葉を残して。

日本であっても、告知を受けた子どもたちは深いショックを受け動揺する。

自分が長く生きることができない、と言う事実は、特に「死」を深く意識したことのなかった人に深い驚きと悲しみを与えうる。

しかし自らの病を受け入れ、自分が死ぬのだという運命を受け入れたとき、なぜか「じゃあ残された時間を精いっぱい生きたい」と思えるようになる子が多いのだった。それは、治すためではなく、意義ある時間を生きたい、という生への渇望だ。

他方、告知をしなくとも、大抵の子どもたちは両親の動揺する様子からただごとではない事態を察するし、何かのきっかけで自分の病気を知るケースがほとんどだ。

「本当のことを言ってくれていない」

という気持ちは、子どもを深く傷つけるし、病気を治すために必要な家族の結束にも影響を与える。

私は、というと、抗がん剤による化学療法の副作用がもたらす苦しみとすさまじさに、もしそれが自分にとって意味ある人生を延ばすのではなく、生物としての自分の生存期間を延ばすくらいのことであれば、もういらない、と思うのだった。

三毛猫

2011.07.24

病院の風景 〜ある青年のことば「なぜ延命するのか」〜

時々頭がくらっとしたり物が二重に見える、などの症状を訴えていた高校生の英史は、17歳だった年の1月に悪性の脳腫瘍との診断を受けた。医師は父親にのみ告知を行い、母親と青年には「良性のできもの」とだけ伝えて放射線の照射と抗がん剤の投与を始める。

嘔吐、食欲の減退、抜け毛、頭痛―夜も眠れないほどの厳しい副作用に黙って耐え続ける息子は、何かを察している―そう考えた父は3月に息子への告知を行う。英史は動揺するが、次第に乗り越えてゆく。

しかし4月の中旬に3回目の放射線の照射や抗がん剤治療を行った後、青年の容態は悪化した。前頭部分にある三叉神経という神経部分に起きた炎症のために激しい痛みが現れた後は、全てのことへの気力をなくしてしまう。

5月2日
患者「生きる気力がなくなりました」
医師「やばいねぇ」


息子「去年の夏の受験勉強と今の闘病は似ている。わけもわからず、ただやってるだけだ。俺には才能がないのではないか」
父「自分をいじめすぎているのではないか。(略)闘病は中止してもいいから、なにをやって生活したいか考えろ」
息子「家には帰りたくない。(略)ここにいれば一人になれるから。(略)」

5月3日
その後外泊許可をとって帰宅し自分の部屋にこもり続けた青年は、一つの結論を父に語る。

「受験勉強をして生活したい。受験勉強は大学に入るためのものだけど、俺はそこまで生きられないだろう。でも勉強をやるのは苦痛ではない。知識欲もある。本当は今、物理学を勉強したいと思っている。(略)それから、サイモントン療法(イメージによりリラックス効果を高め、免疫力と治癒力を高める療法)は延命ではないか。なぜ延命しなくてはいけないのか。生きているあいだだけ精一杯やれればいいと思う。明日死んでもいいと思えるように生きることができたら、それで充分ではないか」

しかし父は治療の継続を希望する。
「(略)おまえがなんの治療もやらずに、ただ生ある限り楽しく生きたというのでは、母さんも父さんも悲しいではないか」

5月4日
その後も考え続けた青年は、次の日に弱った体から声をふりしぼって両親にこう伝える。

「俺は生きようと思う。(略)俺は病気を治そうとシャカリキになっていた。5月1日、2日は無気力だった。3日から4日にかけては、生にエネルギーを費やすというより、死への準備にエネルギーを費やしていた。生きることに執着していた。3日の夜には、このまま目がさめなくてもいいと思った。4日の朝、目がさめてすごくありがたいと思った。(略)そして今は生きのびることが最大の目標ではなく、毎日を精一杯生きることが大切なんだと感じている。俺はやれるだけやってみようと思うよ。(略)」

「(略)ある日治るということを、何度も何度も思った。でも、そういうことはない。しかし、急激に悪くなることもないはずだ。(略)大切なのは結果ではなく過程なんだ」

「悔いのない人生を送りたい。今俺にできることは、受験勉強、家族の手伝い、闘病。今までは、闘病イコール病を治すことだと思っていた。けれど病を患っている人にとっては、闘病そのものが人生の質を高めると気がついたんだ。だから治療もそういう観点でやっていきたい。(略)」

「(略)延命だけの生活はいやだ。まわりに感謝したい。なぜ感謝したいのか。(略)残りの人生で、18年分を感謝したい。今までは俺が生き残るとか、俺がどうとか、自分のことばかりだった。けれどまわりの人がいてはじめて、自分が生きていけることに気づいた。俺は生きようと思う。それは治そうとすることも目的にあるのだけれど、それだけではないということを知ってほしいんだ」

その後青年は歩けなくなり、めまいと吐き気に苦しめられ続けたが、それでもセンター入試の準備を続ける。呼吸困難となり、ある病院の緩和ケア病棟に入院した青年は、12月の末に静かに息をひきとった。

(佐藤律子編 2001年、「種まく子供たち—小児がんを体験した7人の物語」、ポプラ社p7—31)

病気である自分、もう治らない自分、長くは生きられない自分。そんな自分を受け入れて初めて、前に進むことができる。心の平安を取り戻すことができる。治療は、治すためだけではないのだ、と。青年がもし父親に癌であることを告げられていなかったら、それができただろうか。告げられなくとも青年はおそらく知っていただろうが、きちんと病気や待ち受ける死について話し合うことができる家族や医師との関係は貴重に思える。

告知と若い患者にとっての残された人生の過ごし方には、大きな関連がありそうだ。

三毛猫

2011.07.18

延命の論理 〜回復しない患者の絶望と、「一分・一秒でも長く生かす」ためのシステム〜

78歳の男は、肺炎で入院した先の病院で「一時的な処置」という説明で気管の切開を受け、声を失う。

それにもかかわらず、入院当初の男は治療とともに改善を実感し、希望を見いだす。そして痛みをともなう頻繁な痰取りの治療にも前向きに取り組む。しかし、次第に良くなって行かないばかりか、自分が衰弱しつつあることに気づく。

しばらく経って医師達もまた、男が思ったように回復しないことに気づく。末期の食道ガンが原因であることに気づくまで時間はかからなかった。

医師たちは、本人にはガンであることを伝えず、延命治療を行う方針を立てる。治る見込みは無かったが、抗がん剤も多少使うことに決める。妻は夫が苦しまない選択を望むが、医師にそのことを強く伝えることができず同意する。

一方で、男の失望の気持ちはどんどん強くなってゆく。

「入院二週間後には、彼は自分の症状が、ある一定状態からは少しもよくならないことに気づいたのだ。それだけではなく、むしろ全身の衰弱が進んで来ていることを自覚せざるをえない状態にも気づかされた。」

「俺はほんとうに肺炎なのか、ほんとうに治るのか、なぜこんなに長引くのか、なぜこんなに苦しいのか。」

絶望、医師や看護師、家族への不信と怒りが心に渦巻く。しかし男は声を出すことができない。絶望の中で、彼は外界に反応することをやめる決意をする。医師がやってきても目をつぶったままで返事をせず、糞尿もいつしか垂れ流しとなる。

すると今度は尿道にカテーテルが挿入され、動かない体に床ずれができないようにと、定期的に体の位置を変えるために、男は機械的に右から左へと向きを変えられることになる。

男は体が全く動かなるが、頭ははっきりとして外界で話される言葉も相変わらず理解できる。
付き添う妻はいつしか男と疎遠になって話しかけることも稀になっていたが、ついに苦しくなり、医師に延命治療をやめてほしいと要望する。

本人に本当のことを伝えたい、と言う妻に、医師はこう言って反対する。

「一分一秒でも長く生きてもらうために頑張ろう、というのは奥さんの意思でもあったじゃありませんか。本当のことを言えば、本人は落胆して生きて行く気力を失うでしょう。」

しかし自分達ではなく家族の意思で延命をやめるという位置づけであれば、医師たちも安心してやめることができる。男への治療に特に意味を見いだしていなかった医師たちは、なかばほっとして治療をやめる。一日・一秒でも命をのばす治療はこうして終了し、男は遂に死を迎える。

医師でもある著者の山崎は次のように述べている。

「(略)これら末期ガン患者のほとんどが、一般病院の中で死亡しているのである。しかし、一般病院の医療システムは、これら多くの死に行く患者のためではなく、治癒改善して社会復帰できる患者のためにととのえられている。そのために多くの末期ガン患者たちは、多忙な一般病院の医療システムの中で、しばしばとり残されることになる。どれだけ多くの患者たちがみじめな思いの中で死んでいったのだろうか。どれだけ多くの家族が傷ついてきたのだろうか。」
(山崎章郎『病院で死ぬということ』1990年)


治らない患者、死を待つしかない患者のために病院は作られていない。治療は用意されていない。一分・一秒でも長く生かすための「治療」、社会に復帰してゆくための「治療」しか用意されていない—

ダカールの病院で死を待つ子どもたちが、なぜ最後の一瞬まで、つらい化学療法に苦しめられなければならなかったのか、むしろ化学療法で死ななければならなかったのか、その答えの一部がここにあるように思える。「死」を科学の失敗として認めない延命の論理とシステムが、治療をどこまでも続けさせてしまうのだ。

言葉を発することができない老人は、言葉を発することを許されない子どもたちの立場を彷彿とさせる。

「本当のことを言えば、本人は落胆して生きて行く気力を失うでしょう。」
「癌だなんて、絶対に言っちゃダメ!癌だって知ったら、その患者は絶望の中で死ぬことになるのよ!」

日本の病院の医師の言葉と、ダカールの病院で聞いた友人の言葉は、そっくりそのままだ。
患者は、言わなくても知っているのに。
自分が良くなっていない、むしろ衰弱していると感じるときの絶望を、

「ちっとも良くならないの。全然治療が無いの。」

と母が待つ家に帰りたがった13歳の少女もまた言葉にしていたのだと、この暑い日の夕暮れに思い至るのだった。

三毛猫

2011.07.10

秘密を知る者〜子どもの癌と告知〜

子どもが重い病気にかかっているという事実を、神からの迎えの日が間近に控えているという真実を、誰が知るべきなのだろうか。

西アフリカの文脈では、医師は両親からこの秘密をできるだけ遠ざけ、秘密をかろうじて知り得た家族は子どもに近しい他の家族から秘密を隠そうとする。そして、大人主に病院まで子どもに付き添って来る親や親代わりの姉やおばたち—は最後まで子ども自身からこの知らせを伏せ続けるのだった。

3歳の息子アフメッドの2つの目に網膜癌が見つかったジョップさんは、妻には息子の病気を説明しないのだと言った。

「奥さんには、何にも言わないよ。女房は何も知らない。」

「(驚いて)えっ、どうして?」

「この子は俺になついてる。だから俺がこの子の面倒を見る。女房には何も言わないさ。あいつは何も知らない。心配させないようにさ。化学療法の副作用のことぐらいは教えるけど。家に帰ったとき、びっくりされると困るからさ。女房がここに来てひどい病気にかかってる子どもたちを見たら、俺が黙ってたことに礼を言うさ!」

父は妻に一切のことを伝えていない。息子が癌で完全に失明する可能性があること、目の癌が頭に転移して脳腫瘍で亡くなる子どもが多くいる現実を。

妻が心配するだろうから言わない、というその言葉は、半ば本気だろうと思った。

他方で私は、「癌だと言うとびっくりして心配するだろうから、病気のことは患者には伝えない」という医師の言葉と重なるものを感じたのだった。

母だって、息子を愛している。

辛くても知っておきたい真実があるのではないだろうか。

息子の目が見えなくなったり、死んでしまう可能性があるとしたら。

セネガルの病院では、医師は患者に絶対的な力を持ち、家庭では夫が妻に絶対的な権威を持つ。

このように、重要な情報子の病いと死—は権力を持つ者だけが知ることができる秘密のように扱われている。

割礼を受けた男たちが仲間うちでだけ通じる魔法の言葉を話し、科学や論理で説明できない不思議や秘密を共有するように、家族であっても話すことが決して許されない絶対の秘密というものがこの社会には存在している。

もちろん、この「重要なことを当事者と共有しない」という現象は、権力の関係や秘密のきまりだけでは説明できない。

ムサはお腹に大きな癌ができていて、南のカザマンス地方から救急車でダカールの病院に運ばれた一ヶ月後、十分な治療を受けることなく亡くなった。死んだ甥について、叔父は葬式の後でこう語った。

「カザマンスの州病院では、『すぐにダカールに運ぶしか無い』というだけで、何も教えてくれなかった。僕は知り合いや家族を全部あたった。それで、あの病院で働いていた遠い親戚にあたる男を探し当てた。そしてその男にムサのカルテを盗み見てもらったんだ。カルテには癌だと書かれていた、と男が言ってきた。それで初めて知ったんだ。」

「お父さんは悲しまれたでしょうね。」

「いや、(隣にいる妹に)ねえ、あの子のパパには言ったんだっけ?父親には言ってなかったと思うけど。。」

「知ってたと思うわよ。」

「いや、言ってないと思うけどなあ。」

甥の病を必死で探し当てた叔父は、事実を甥の父親、自分の弟に伝えるのをためらった。

「そんなことを言ったら、随分ショックを受けるだろうから。」

と叔父は説明した。

奥深い農村で土を耕しながら村長をつとめる父は、息子を溺愛していた。

10人いる子どもたちの中で一番頭の良い子だといつも自慢していた。

ムサが死んだあの日、父親は涙を流した。

この国では、男が人前で泣くのは稀だ。

ショックは受けただろう。

でも、もし事実を知らなかったとしたら、父親は息子の死に目に間に合わなかったに違いない。

ダカールの町は、男が済む人口100人にも満たない小さな村から何日も行ったところにあった。

西アフリカ文化の中にある、秘密を仲間うちだけで共有し隠す習慣が実際の生活に不便をきたすことはあまり無い。しかし秘密が「家族の生や死」という、ある意味現実的かつ生活に直接結びついた事柄に及ぶ時、秘密を守ることは他の家族の人生に大きな影響を与え始める。

息子の死は母親や父親にとって一生の問題だ。

子の死後も親はあれこれと後悔をし、子を懐しんで涙を流す。

しかし幸い、というべきかどうか、子どもの病や死に関する秘密はきちんと守られていない。

ムサの叔父が秘密を隠したとき、叔母は父に事実を伝えていた。

こんな風に、物事はある程度「うまく」回って行くのだった。

同様に、子どもたちもまた、最も真実から遠い位置におかれながらも—子どもには大人に、そして医師に質問をする権利がない—自分の病気を、そして近づきつつある最後の時を予感している。

三毛猫

2011.07.03

「死に至る病」癌の告知と行き違い〜子ども、家族、医師:それぞれの視点と言葉〜

これまで何度か、小児癌の告知について取り上げました。
ここで一度まとめておきたいと思います。

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うちの子の病気は何なのか、癌なのか。
急性白血病の治療にこの2年の間、地方の町から毎週欠かさず娘を連れて通院する母親は、

「医師に子どもの病気を説明して欲しいのに、何の説明も無い」、

と会うたびに不満をもらした。

「知りたい」と言う母親の言葉には、

「でも、癌だから言わないのかもしれない」
「もう助からないから、言わないのかもしれない」

という、「知りたくないかもしれない」という不安にも似た気持ちが微妙に交差する。

知りたい、でも怖い。もし治らない病気だとしたら。

「何の説明も無い」と言う彼女は、その一方で「海外の病院に連れて行かなければ治らないのかもしれない」と急に現実的な、そしてとてもかないそうにないことをつぶやいたりもする。化学療法ですっかり髪を失った8歳の我が子を見ながら、これが癌の治療だと気づかないのだろうか、と私は内心自問する。

「『カガクリョウホウ』って、何?」

いつか母親が投げかけた質問を思い出しながら。本当は分かっていながら、見えない振りをしているなどということがあり得るだろうか。それとも本当に分かっていないのか。

どちらにしても、辛いことは確かだった。

家族からの支援は驚くほど無かった。娘を「僕のプリンセス」と呼び、この国では高価な携帯電話やコンピューターを与える優しい父親は、病院について来たことがほとんどなかった。重要な宗教上の祝日にすら家に帰れない一人娘をダカールまで見舞いに来たことが数回あったが、診察に付き添ったことは全くない。スイスに住む母親の義理の弟夫婦もまた、少女をかわいがりながらも診察のために海の向こうまで少女を招いてくれたことはなかった。表向きは円満で和気あいあいとした家庭の中で、若い母親は孤立無援だった。そして幼い少女もまた。

「娘の病気をきちんと説明してほしい。治療にあとどれくらいかかるのか教えて欲しい」と語るときの母親の目は、こうした複雑で微妙な状況にもかかわらず真摯で貫くような視線そのものだ。「真実」を半分程度知りながらどうすれば良いのかを知らない私は、内心うろたえながら彼女の話を聞くばかりなのだった。

他方、医師の方は、

「親は皆、自分の子どもが癌だと知っている」
「告知は診療科長の役目だから、僕じゃない」
「自分はちゃんと説明している」

と親に癌である事実が伝わっていることを示唆するが、現実には告知はなされていない。むしろ、「間違って」告知をした新米の研修医がひどく他の先輩医師達に叱責されたように、告知は「禁止」されているに近い。教科書に書かれた表の規則と診療科長から研修医に伝えられる裏の規則は、ほとんど正反対の内容なのだった。

こんな風に、癌の子どもたちの家族と医師たちの間には、厳然とした行き違いがある。
それがなぜなのか、という問いにこたえるのは容易ではなかった。それは、癌という病気が「死」に密接につながっていることによるタブー、そして不治の病を「失敗」とみなす医師の価値観、医師と患者の間にある権力関係などからなりたっていた。その上、「知りたい」という母親・父親の言葉は、時に微妙に揺れ動く性質のものなのだった。

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